5月のコンサート以来、いろいろなことがありましてお待たせいたしました。この1学期の間、子どもたちの生活はすっかり金井っ子らしさを増し、あそびをどん欲に追求する姿が多く見られるようになりました。私は子どもたちの要求に従って竹でおもちゃを作る毎日です。
前園長はこの作業を何十年も続け、卒園した子どもたちが園にくると竹の剣の話やおもちゃの話が多く出ます。子どもたちの心に残っているものがただ単に竹の剣やおもちゃを作ってもらった。という話だけではなく、そこには前園長との心の交流が必ずと言っていいほどちりばめられていました。このことは、私としても理解はしていたつもりでしたが、その奥深さを理解するのに数年を要してしまいました。
この園を受け継いだとき、すぐにでも子どもたちの要求する竹のおもちゃ作りをしようと思いました。しかし、この竹のおもちゃ作りは前園長と子どもたちの関わりの多くを担っていると感じ、あえて自分と今の子どもたちとの関係を自分なりに創ろうと心がけようと心に誓いました。そんな理由であえて竹細工を作らなかった時期がありました。でも、子どもたちのあそびを見つめると、外で元気にあそぶだけではなく、じっくりと物事に向かうあそびや道具を自分自身の分身として扱うことで得られる子どもたちの喜びや充実感、あえて違う視点で言いますと、(人間が太古から長い間をかけて培ってきた自由の獲得)などという大きな考えが頭に浮かんできました。
実際、子どもたちが道具を使いこなすことで、得られる喜びは、今迄、実現できなかったことが自分の手や足で実現できることへの喜びではないかと感じることが多々ありました。自分の意思を持って物を自由に扱うことで、そこに自分自身の感情をも入れ込むような感覚が子どもたちの生活やあそびの核になっていることも気づきました。また、あそびだけではなく感情の育ちや関係性の育ちをも総括するような大きな育ちとも連動しているように感じました。
私が竹細工を作っていると、子どもたちはどんどんと要求してきます。「ここにギザギザをつけてくれ」「ここはもうちょっと細くしてくれ」「これをつけてくれ」色々な注文を出します。子どもたちにとって、目の前で出来ていくおもちゃに注文をつけてよりそれらしくしたいのでしょう。自分で竹の剣にテープを巻いたり笛に色を塗ったりする子はいますが、まだ自分自身で道具を使いこなして作っていく子どもは出てきません。しかし、目の前で自分の願望が実現できる喜びを知った子どもたちは、目の前でナイフやノコギリ、ナタなどを使いこなして魔法のようにおもちゃを作り出しているお手本を見ているうちに必ず自分でやってみたくなるに違いありません。そんな子どもたちとの毎日のやり取りや心の動きを見ていると、子どもたちとじっくりと向かい合い、本来の子どもの心を感じることが出来るものだと改めて認識しました。決して作ったおもちゃを大切にしてほしいのではないのです。(まあ、ゾンザイよりもいいでしょうが)その作られたものを子どもたちがどんな思いを持って作ってほしいと感じるか、そのものからどんなことが生まれるのかを期待しながら、毎日作っています。
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